時の流れは電光石火のごとくと考える55歳
■時間の経過が年々加速する理由
俺は今55歳だが、時の流れはずっと加速し続けている。感覚としての1年は、年齢とともに短いものとなり続けているのだ。よって、ちょっとボーっとしていると、きっとすぐにでも白髪となるか、もしくは禿おやじとなってしまうかもしれない。それでもボーっとしていると、次に気付くのは棺桶の中ということにもなりかねない。
人が感じる時間的感覚とは、過去の人生の長さを尺度としている可能性が強い。たとえば、10歳の子供が1年を感じる場合、これまでの人生の1/10の時として感じる。ところが60歳のシニア世代が感じる1年は、わずか人生の1/60にしか過ぎない。単純に比較するならば、感覚的にわずか1/6程度の時間で1年を捉えていることになる。感覚的な時間の経過速度も、年々加速するわけである。
俺が若い頃は、55歳という年齢のことなど考えることはあまりなかった。ただ、けっこう年齢を重ねた初老のおっさんという感覚はあった。ところが、自分でその年齢になってみると、なんとも実感がないことに驚いたりしている。なぜなら、20代や30代、40代の記憶は、昨日の出来事のごとく鮮明に残っており、長いこと生きてきたという感覚が全くないからである。
■「光陰矢のごとし」だからこそ
何年か前のことだが、20代の頃に1年ほど過ごした地域を訪れたことがある。まだ若い頃だから、仕事の記憶よりもむしろ遊びまくった記憶の方が多いが、その街をとても懐かしく思った。空いた時間、俺はタクシーをつかまえて、あちこち見て回った。
「この辺も、結構変わったね」と俺は運ちゃんに言う。
「そうですか?あんまり実感がないですけど。お客さん以前こちらに住まわれていらしたんですか?」
「うん。30年ほど前だけどね。街が随分新しくなった」
と、懐かしく俺がそういうと、運ちゃんの一言。
「あー。そりゃわからないっすよ。俺、まだ産まれてないし」
「・・・」
とまあそんな感じである。俺的には、そんなに過去という感覚を持つことができないが、その間に、この世に生を受け、よちよちと歩き、小学校に入学し、中学では暴れ、高校大学と進んで東京に就職するものの、地元に戻ってタクシーの運転手になるという半生がそこには無数存在するわけである。まあ、当たり前と言えば当たり前のことなんだが、はて、俺はそんな長期に渡る時間の中で、一体全体何を考え、何をしてきたんだろうと考えると少々凹んだりする。
俺は基本的に不埒に生きてきたが、言い換えれば、フワフワと流されて生きてきたに過ぎない。つまり、あんまり深く考えず、常にやりたいことを追いかけてきたに過ぎない。そしてだからこそ、何も作り上げることができなかった。
いやあ困った。気付いたら55歳である。ちょっと気付くのが遅すぎたようだ。ということで、もしあなたがまだ俺よりも若いのであれば、こんなおっさんにならないためにも、今、気付くべきである。
人生は意外に短い。そして、その中でできることは限られている。だからこそ、日々考えつつしっかりと歩んでいっていただきたい。そんな地道な毎日が、案外、徐々にだが大きな成果となってあなたに返るはずだからである。
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