55歳の俺がガキの頃のコンピュータ事情とは
■俺がガキの頃のコンピュータ事情
俺がガキの頃、つまり40年以上前の段階において、既にコンピュータは存在していた。このことについては、先にも本ブログでふれている。しかし、ガキの俺はさすがにその存在を日々認識していたわけではなかった。ただし、コンピュータ、つまり電子計算機との接点がまったく皆無だったかというと、そうでもない。
たとえば俺が10歳になる頃の1970年には、電卓の価格は10万円を切り始めている。
「ん?電卓が10万円だあ?」と、若い方はそう思われるかもしれないが、まだそんな時代である。ただし、いずれは個人が電卓を持てるんだろうなあと、その当時ガキであった俺にもそんな予想はできた。既にそんな雰囲気が漂っていたからだ。
ちなみに小学校の授業中、そろばんを車に見立てて遊んでいて教師にこっぴどく怒られたことがあった。その際「僕はそろばんなんかやりません」と啖呵を切った記憶がある。教師はすかさず「そろばんをやっておかないと将来困るぞ」というので、「僕が大人になる頃には、誰もが電卓を持てるようになっているはずだからやりません」と反抗したりした。この予想はわずかその2年後には実現してしまうが、教師のおっしゃることもまた正しかった。計算が弱い俺は今、とても困っているからだ。
また、DIALS(Dendenkosha Immediate Arithmetic and Library System:ダイアルス)がサービスを開始したのも1970年である。DIALS、ご存知だろうか。
これは、かつての日本電信電話公社によって提供された電話計算サービスである。つまり、プッシュフォンで計算を指示すると、それを日本電信電話公社側のコンピュータが計算してくれるサービスである。しかも計算結果は音声によって回答される。つまりこの頃、すでにコンピュータとの接点は、しかもオンラインにおいて、実現していたわけだ。また、音声複合技術がすでにあったことにも驚かされる。
俺のウチの電話はアナログ回線だったが、金持ちの友達の家は、すでにプッシュ回線だったので、このサービスを知った俺は、その友達の家で試しにつかわせてもらったことがあった。かなり興奮した記憶がある。
なおこのサービス、使い方は複雑だったが、平方根やべき乗、πはおろか、関数計算なども可能だった。計算結果が音声でなされるため、聞き逃したら終わりという不思議なオチがあったが、それでもプッシュ回線さえあれば、誰もがコンピュータを使える時代は、すでに到来していたのだ。
■俺が11歳の頃には登場しているインテル社のCPU
また、当時は非常に高価であったものの、民間企業にも徐々にコンピュータは普及し始めていたようだ。ICやそれに続くLSI技術が急速な進化を遂げ始めた頃だから、コンピュータは小型低価格化路線を進むことになっていった。まあ、とはいえ、本体のみでも、大型冷蔵庫程の筐体は必要だったはずだが。
それでも翌年の1971年には、インテル社が世界初の商用マイクロプロセッサ、i4004をリリースしている。そう。55歳の俺が11歳の時には、既に現在のPCに実装されているCPUの原型がリリースされていたわけである。
ちなみにi4004は、一秒間におよそ9万命令を処理することが可能だった。この値は驚くに値しないだろうか。すでにコンピュータの時代は到来していたといえる。まあ、ただし現在のPCに搭載されているCore i7においては、一秒間におよそ9000億命令を処理できたりるわけだけどね。
と、取り留めもなく俺が子供の頃のコンピュータ事情を語ってみた。「だからなんなの」といわれると困ってしまうわけだが、1972年にはシャープから1万円少々の電卓がリリースされることになる。計算をさせると、ちょっと時間を要したりして、少々人間味を感じさせる電卓だったが、これはその後の電子計算機の低価格化にも多大な影響を与えたはずである。
また、1974年には、たぶんは世界初となるパーソナルコンピュータ、Altair8800がリリースされている。Altair8800には、i4004の後継であるi8080というCPUが採用されいるが、日本円で5万円程度で購入できたため爆発的なセールスを記録することになる。この年にコンピュータのパーソナル化は始まった。まあ、まだキーボードもディスプレイもなくメモリは256Byteに過ぎなかったけどね。
また、Altair8800の登場から、近い将来においてパーソナルコンピュータが本格的に普及することを予見し、大いに興奮した若者がいた。その若者は1975年、ハーバード大学を休学し、ソフトウェア会社を立ち上げている。若者の名はビルゲイツ、会社名は、現在では誰もが知るマイクロソフトだ。
とまあ、そんな時代だったわけだ。
【以下の記事も読まれています】