気軽に生きるためにの人類みな友達論
いつも何かに怒っているかのような顔で生きている人がいる。何にそんなに怒っているのだろうと思ったりもするわけだが、そんな事をきこうものなら、本当に怒られそうなのであまり近寄らない。
しかしそんな人であっても、何度も顔を合わせていると、次第に心を開いて話をするようになる場合があるものだ。その頃になると、顔の印象も緩やかなものへと変わっていく。
そこでそんな若者に、興味本位も手伝ってこんなことを聞いたことがある。
「なんでいつも怒っるの?」
すると彼は、キョトンとしてこう答える。
「え?そんな感じに見えますか?」
そう、彼は別に怒っていたわけではないし、決して難しい性格でもない。
ただ、やはり第三者に対する視線は厳しい。
しかしその後、いろいろと話をしていて、彼が社会や周囲に対してどのような思いを抱いていたかを知ることになる。
不思議なことに、これまで同様の印象を受けた人には、おおよそ共通点が見て取れるものである。今回はそんな人と、それとはまったく真逆な人のお話をしてみようと思う。
■いつも怒っている人
人の顔や表情には、性格というよりもこれまでの人生が映されているものである。これまで不遇の人生を送ってきたと考えている人は、とかく社会に不公平性を感じているものだ。また、その中で自分の思うような道を進むことができないと考えていたり、現状においてなんらかの抑制を受けて生きている。大きな挫折感を抱えている人もいる。
周囲の人間はみな敵であり、気を許すと騙されてしまうのではないかといった強迫観念を持っている。これだけのマイナスパワーを持っているのだから、それが顔に出ていたとしても不思議なことではない。
また、このような感情に支配されていると、人の評価を批判から入ることになる。
人の良い面には目を向けず、むしろ欠点に目を向けては、それが悪いことだと断罪する。他者を批判することで、自分が底辺ではないと認識しようとするわけである。
怖い顔をして、さらには相手の弱点のみを指摘するのだから、当然のこと、周囲の人はその人間を避けることになる。
このスパイラルに入ってしまうと、その人が感じる「周囲の人はみな敵」という思いに裏付けがなされることになる。心はさらに固く閉じられてしまい、孤立が深まる。
しかしこれでは、幸せになれないだろうし、気楽な人生を歩むことは難しなってしまう。また、孤立は結果的に貧困状態をも招くことになる。メリットは何一つない。
■いつも笑顔でいる人
と、偉そうに語る私も、実はこれまで述べたカテゴリーに属していたといえる。まあ、底辺に生きているわけなので、底辺にありがちな考え方を持ち、心を閉塞させ、そしてその結果として、表情や視線が厳しくなるというのも当然といえば当然なのかも知れない。
ところが、このカテゴリーとは真逆な人もいるものである。
かなり前のことだが、あるコミュニティーの中にその人はいた。いつも優しい顔をしている。また、初対面の人に対しても、屈託のない笑顔で接することができるし、話をしてみると、その内容にマイナスな話はひとつもない。
そのためなのか、彼はコミュニティーの中でも人気者であり、多くの人に支持されていた。
「この人、どこぞの教祖かもしくは優れた詐欺師なんじゃないか?」
と、底辺男の私はうがった側面でそう観るわけだ。しかし彼の持つ世界観がとても知りたいと思った。幸いにも後日、彼と呑みの席で同席することになったので、それとなくこの点についてきいてみることにした。
■笑顔で人に接する人の見る世界観
「あなたは、誰からも好かれる人気者ですね。うらやましい」
直球過ぎたかと思ったが、私はそう切り出す。
「ボクはとても幸せ者なんです」と、彼がにこやかに答える。
「幸せ者?」
「ええ。ボクはいつもいい人に恵まれていますし、多くの人に支えられているから」
「でも、生きていればいろいろなこともでしょう。いろんな人もいるし」
底辺なりの変化球も得意である。
「そうですね。でもやっぱり良い事のほうが多いし、それに」
「それに?」
「みんな友達ですから」
この言葉を、私はすぐには理解できなかった。しかしあれこれと話をしていると、次第に彼の世界観を垣間見ることができるようになった。
彼は基本的に、自分と出会った人はみな友達であると感じているようだった。また、出会う人のみならず、街ですれ違う人々もみな、自分には好意的な人々であると考えている。
つまり、彼にとって人類みな友達ということになる。すべての人が友達なのだから、常に好意的に人を見る。当然、優れた点の評価から入ることになる。
人は自分を評価してくれる人に好意を持つ傾向がある。このため、彼は結果として好意的な人間関係を築くことになる。彼にもたらされる幸運もまた、そんな人間関係ゆえのものなのだろう。
しかしそんな彼とて、さまざまなことがあるはずである。ところが彼の考え方には一貫性があり、ブレることがないようだ。
■「人はみな友達」論を真似てみる
この人の考え方は、私にはとても斬新なものだった。それまでの私は、どちらかといえば「人はみな敵」と考えていた。しかし彼は「人はみな友達」と考えている。
周囲の人間がみな敵である人と考えている場合、それは戦場であるともいえる。一方、後者は周囲がみな友達であり味方であり、理解者でもあるわけだから、それはあたかも楽園のごとき世界であるはずである。
つまり、双方の見ている世界観はまったく異なる。ところが、双方の住む社会は同じものである。つまり環境にはなんら差はないのだ。
さて、どちらが幸せで気楽に生きることができるだろうか。
「心を開いたらそのスキを突かれるはずだ。そんなことはできるはずがない」
と思われるだろうか。
実は私も当初はそう考えていた。しかし、乗りかかった舟である。周囲はみな友達であり、自分を好意的に見ていてくれるとの認識を実践してみることにした。
いや、実践とは行かなかった。気持ちはブレまくるので、そう簡単にはいかなかったし、どう考えようにも社会の厳しさは感じた。つまり、彼のような楽園にたどり着くことはなかった。
しかし変化も感じられた。それは、今までよりも気軽に生きることができるようになったという点である。
事態になんら変化はないものの、世界観は明らかに変化していった。
本ブログは「50代からの貧乏ながら気楽な人生」である。貧乏はまっぴらだという方は多いことだろう。また、気楽になど生きたくないと考えていらっしゃる方も多いはずである。人生人それぞれ、どれが正しいかなどといった正解はない。
しかしもし、できれば今までよりも気楽に生きたいと考えていらっしゃるのであれば、ぜひ実践してみていただきたい。まあ、ブレることだろう。しかし、もしかしたら人生がそんなに辛いものではないという境地を垣間見ることができるかもしれない。