幸せを手にするためのクレイジーヘッドとグッドハート
■現代人が幸せを感じにくい要因とは
情報化社会といわれる現代社会においては、多大な利便性を享受することに成功しているし、貧富の差はあれど、昔からすれば驚くほど豊かな生活を手にすることができるようになった。ところがそんな現代において、悩みを抱えて生きている人は、とても多いように思う。むしろ、敗戦さなかの日本において、バラックでの生活を余儀なくされていた頃よりも、悩みの種は増えてしまったのではないかと思えるほどだ。
現代では、仕事は辛いものの、とりあえず飢えることなく生活をすることはできている。腹が減れば、300円程度で牛肉の乗った暖かい飯にありつくことができるし、コンビニで冷えたビールを買い、それを喉に流し込んで唸ることもできる。家に帰れば、大画面テレビで映画やバラエティを観ることもできるし、驚くほど鮮明に描かれたバーチャル空間に身を投じ、ゲームに興じることもできる。
敗戦さなかの日本において、これらのことは何一つ叶うことはなかったはずである。しかしそんな当時よりも、むしろ現代の方が、悩みを抱えている人が多いのは、考えてみれば不思議な話だとは思われないだろうか。
バラックの生活が、現代の生活水準を上回るはずはなく、しかも日々食べるものにありつける保証すらない時代だから、娯楽を楽しむ余裕などなかったはずである。ところが、当時の人々は、現代の人々以上に活気ある生活をしていたし、また、多くの人々は、それぞれに大きな夢を抱えて生きていた。
そう考えるなら、豊かさと幸福感は、単純な相関関係では結ばれていないようにも思えたりする。つまり、豊かになったからといって、そのまま幸せになれるわけではないということだ。
現代の人々が、幸せを感じにくいのは、すでにライフスタイルが頭打ちになってしまっており、それ以上の向上を見込めない部分にも、その要因があるように思う。
敗戦でリセットされた状態に陥った日本では、すべての人間が何も持たない状況下を余儀なくされた。何も持たないわけだから、日々ひもじい生活を強いられるわけだが、その一方で、頑張れば、これまで持つことができなかった何かを手に入れることができるかもしれないと、そんな希望を持つことができる。そして、希望を持つことができれば、それを具現化するために働くことは、さほど苦にならなかったはずである。つまり、強い動機付けを得ることができるわけである。
ところが、必要なものを一通り手にしてしまった現代人には、新たに何かを手に入れる必要性がない。つまり、動機付けとなる素材に乏しく、動きが取れないことになる。
流れが停留してしまった水は、澱むしかなくなるが、現代人は、これと同様の状態に陥ってしまっているのではないかと、そんなことをふと考えてしまう。
■今持つべきものはクレイジーヘッドとグッドハート
では、現代人が輝きを持って生きるためには、何が必要となるだろうか。と、そんなことを考えていてふと浮かんだ言葉が「クレイジーヘッドとグッドハート」だった。そう、この二つを持ち続けていれば、人は幸せに生きていくことができるように思えるのだ。
まずはクレイジーヘッド。これは直訳すれば狂った頭なわけだが、ニュアンスは少々異なる。それは、一般常識にとらわれない発想ともいえるものであり、皆が東を向いているときに、東以外を向くことができる思考力といえるかもしれない。
常識的には、頭打ちとなっている私たちのライフスタイルだが、クレイジーヘッドには、その天井を突き抜けた世界を見据える力があるように思う。つまり、頭打ち状態を感じることはない。そして、そんな世界へと突き進む願望や希望を持つことができるのであれば、それを具現化するための苦労は、単なる無意味な苦痛とは、本質的に異なるものとなるはずである。
そして次のグッドハート。やはり、幸せになるためには、それを受け止めることができるハートが不可欠であるように思う。すべてにおいて満たされた状態がむしろ当たり前の現代人において、たとえば、河原の小石の陰で咲く小さな花に目を向け、その美しさに感動することは難しいかもしれない。しかし、グッドハートがあれば、そんな小さな感動を積み重ねていくことができるはずである。幸せを手にすることは難しくない。なぜなら、身の回りにもともと存在する小さな幸せに気づくことができるグッドハートを取り戻すことができれば良いからである。
グッドハートは、しっかりと意識すれば、誰にでも手にすることができる。そして、手にした瞬間から、殺伐とした世界とは、きっぱりと縁を切ることさえできるのだ。
いかがだろうか。
クレイジーヘッドとグッドハート、あなたも意識して手にされてみたはどうだろう。きっと、これまでにない素敵な時で、今後の人生を塗り替えることができるはずである。