老後に働く人は幸福か不幸かの考察
■しなければならない何かを持つことの意味
私はこのブログの各所で、老後に至るまでに、なんらかのすべきこを持つ必要性を書いてきた。まあ、私の考えなのでそれが正しいのか否かはわからない。しかし周囲の先人の方々を観察してみると、なんらかのすべきことを持っているご老人が元気である一方で、なにもすることがない方の影は薄い傾向にあることに気づく。
最近はあまり見かけなくなったが、私がガキの頃は、行商のおばあちゃんをよく見かけることがあった。80に近いんじゃないかと思われるおばあちゃんが、とんでもなくどでかい荷物を背負って登場しては、野菜とか果物などを売るのだ。
私は子供ながらに、あんな年齢になってまで働かなければならない悲惨さに心を痛めた記憶がある。しかしそのばあちゃんたちには、一様に素敵な笑顔があった。不思議に思った私は、ばあちゃんに質問をしたことがある。
「荷物がすごく重そうだけど、辛くないの?」
「あー。とんでもなく重いよー。でも仕事だからね。慣れるもんさ」
「そんなに辛いのに続けなきゃならないなんて大変だよね」
「そーだねー。でも結構楽しいもんだよ」
ばあちゃんはそういいながら、懐から「いこい」を出して一服つける。そして「ふー」と煙を吐き出したときのあの何ともいえない、羨ましいほどの笑顔は、今になっても忘れることができない。
つまりはそういうことなんじゃないかと、今は思う。ばあちゃんは過酷な労働を楽しんでいた。いや、必要に迫られていたのかもしれない。しかし確かに、彼女には充実感を見て取ることができたし、80に近いような年齢にもかかわらず、元気に日々を送っていることは確かだった。
私のような不埒な生き方ではなく、日々必死に生き続けてきた人からすれば、「老後くらいはゆっくりさせてくれよ」と思われる方もいらっしゃることだろう。確かに60歳を超えてまで、必死に生活を維持しなければならないのは、悲惨以外の何ものでもないだろう。
しかし「何もしない」というのは無理がある。たまの日曜日ならいざ知らず、毎日が日曜日なのだ。誰だって1年もすれば飽きてしまうだろう。
■意外に長い老後の時間
ちなみに、学校を出てからリタイアするまでを40年と考え、1日に2時間の自由時間を持てたとすると、その総計は29200時間である。一方で60歳から80歳までの20年間において、フルタイム暇であり1日10時間の自由時間を取れるとすると、その総計は実に73000時間となる。つまり、これまでに労働をしつつ確保してきた自由時間の倍以上の時間が、老後にはあるのだ。しかもこれ、たまにではなく連続して死ぬまで続くわけであり、しかもこの使い方を誰も指導してはくれない。
だからこそ、ご自分でなんらかのすべきことは持っている必要がある。しかも単に望んで作り出す何かとは別に、毎日短い時間でも、しなければならない時間を持つことは、生活にメリハリをつける上でも、とても重要な要素となるはずだ。
まあ、先のばあちゃんのように、とんでもなく大きくて重い荷物を持って、長距離を移動する必要はないかと思う。しかし、自分の生活にハリをもたらす何らかの仕事を、リタイアする以前から計画的に作り出しておくと、第二の人生にも、ちょとした輝きや生きがいを持つことができると考えるがいかがだろうか。
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