50代終盤でいよいよ私もジイジとなったわけでして
先日娘が一時帰省して無事出産をした。しばらくの入院の後に孫と共にやってきた。あれこれと受け入れ体制に翻弄された毎日であったが、以降、赤ん坊の鳴き声の中での生活となっている。
「ほら、ジイジだよ」
赤ん坊を抱く娘がそういう。ジイジって誰だと思ったが私のことだと気づき、嬉しくもあり何となく違和感もある。不埒な人生を送っているからか、自分が年齢を重ねていることの実感がないまま、私はジイジになってしまった。
「ジイジは古臭い感じがするので、グランパと呼ばせることにしよう」
と、そういうと意味深に「フフフ」と娘が笑う。
■孫の存在に戸惑うばかり
「孫は可愛いものだよ」と、以前から先人にそのような指導を受けはしていた。しかし孫の存在となると、いまひとつイメージができないでいた。
しかし、実際に目にした孫はやはり可愛いものである。ちなみに、赤ん坊を抱き上げる感覚は忘れてはいなかった。子どもたちを育てた過去の経験はしっかりと役に立っている。むしろ赤ん坊の両親以上に堂に入っていると自負できる。
ところが私が抱きかかえると、赤ん坊はいつも眉間にシワを寄せ、鼻の穴を広げて「ママじゃないじゃん。あんた誰?」といった表情をする。おい、悟ってくれよ。君は私のクオーターなんだぞ。
グランパ一年生の私は、この事態に戸惑うばかりである。
しかし生まれたてとはいえ、表情は実に豊かだ。
風呂にいれると、陶酔しきった表情をする。温泉につかって「あー極楽」と唸るおっさんそのものである。多分は胎児の記憶が蘇るのだろう。
また、喜怒哀楽のトレーニングなのか、たまに意味もなくニコッと笑ったりもする。もっと笑わせてやろうとあれこれとあやすが真顔に戻る。で、抱きかかえると、いきなり眉間にシワを寄せるわけである。
■孫はなぜ可愛いのだろうか
さて、では孫はなぜ可愛いのだろうか。これについてここの所ちょっと考えたりしていた。子どもたちが生まれた際にも可愛いとは思えた。しかしそれ以上に大きな責任を感じたものだった。
子供を育て上げるには、それなりの経済的負担も覚悟しなければならないし、不埒な私の子供なのだから、その面を継承させてはならないといった思いもあった。
しかし孫に対しては、そのような配慮はまったくいらない。単に「かわいい」で済む。赤ん坊を育てるのは、赤ん坊の両親であり私ではない。
可愛いがりすぎたとしても、教育は娘夫婦がするので、それで良い。よって、可愛いという感情以外に持つべき責任はないわけであり、どうしても可愛さが前面に出る。まあ、そんなことなんだろうと理解している。
■孫が架ける未来への架け橋
現在日本の平均寿命は男性が80歳、女性が86歳程度だと記憶している。今後の世界では何が起きるかわからないが、このまま医療技術が発展を続ければ、この平均寿命がさらに延びる可能性も高い。
私はどう考えても届かないが、ふと考えてみると、この赤ん坊は22世紀の世界を見ることになる可能性が高い。
22世紀といえば猫型ロボットのドラえもんの世界である。ちなみに、人工知能が人類を超えるのが2045年とされており、その問題が一部でかなり騒がれていたりする。22世紀はそのさらに55年も未来に到来するわけだが、その世界は私には到底予想もつかない。
そんな時代をこの赤ん坊は生き抜くことになるのだ。
娘には先行して教育を施すことを提案した。何らかの優位性を持たせなければ、今後は安定した人生を歩むことが難しいように思えたからだ。
小さな孫には「ずいぶんと大変な人生になりそうだな。頑張るしかないな」と耳打ちをする。
孫はその言葉を理解することはなかったに違いない。相変わらず眉間にシワを寄せ、鼻の穴を広げて私を見上げるのだった。