「働いたら負け」という考え方の是非についての考察
■「働いたら負け」という言葉の流行
「働いたら負け」という言葉が若者の間で流行しているようだ。この考え方においては、働かざる者がすなわち勝ち組ということになる。確かに、働くことなく生きていくことができるなら、それはそれで魅力的な世界である。毎朝早くから起きて仕事場に向かう必要はないし、ムカつく上司の理不尽な指示に従う必要もない。フルタイム自由な生活を満喫できるのだから、これ以上の幸せはないような気もする。まさに勝ち組の部類といっても良い生活である。
ところが、働かざる者の実態を調べてみると、これほどまでのパラダイスはそこにはない。
「働くことなく生きていけるのに、それがパラダイスではないと?」
日々過酷な労働を強いられている方からすれば、そんな言葉で反論してみたくなるのも、当然のことと言えそうである。しかし、実際に働かずに生きている方々でれば、それがパラダイスとは言えないことも、ある程度は納得いただけることだろう。
では、働かざる者の実態とは、どのようなものなのだろうか。また、どのような生活も出るを手にすることができれば、「働いたら負け」と胸を張って言うことができるだろうか。今回はこの点について考えを進めていこう。
■「働いたら負け」という負け組
まずは「働いたら負け」という方の中の、不幸なケースについてから考えていく。そもそも働いていないわけだから、何らかの不労所得がなければ、収入源は絶たれてしまう。実際に無職となられた経験をお持ちの方ならおわかりかと思うが、働かなくなると、途端に生活は困窮する。生きるためには、最低限お金が必要であるにもかかわらず、収入はないわけだから、これは当然といえば当然である。
仮に実家で生活をしており、ご両親に寄生しているのであれば、何とか食べていくことはできるので、これはこれで良いわけだが、それでも、両親がいなくなってしまったことを考えると、不安は常につきまとうことになる。また、生きていくことはできたとしても、生活は苦しく、食べて寝るのが精一杯という状況下に置かれることも少なくないことだろう。
さらには、資本主義社会における無業者は、どことなく居心地が悪いものだ。経済活動との接点がまるでなく、しかも日々することがないので、生きることに楽しみを見いだすことが難しくなる。
周囲の目も気にかかるところだ。友人と飲んだりすると、「お前、いい加減真面目に働いたらどうだ」と説教をされたりする。帰路につく際、「働いたら負けだ」と独り言をつぶやくものの、その言葉に力はない。
また、孤立はさらなる貧困を生む。社会から隔絶されてしまうと、収入源を得るための情報や実際の話を受ける手段がないからだ。よって、自力で這い上がらなければならず、さりとて、探しても職はなく、よって孤立無業者から抜け出すことはできない。
「働いたら負け」といいつつも、実際には「働かないから負け」を背負ってしまうことになるわけである。
■「働いたら負け」という勝ち組
一方、「働いたら負け」と胸を張って言い切ることができる人間も、世の中には存在するものである。それは、働くことなく、しかも豊かに生活するだけの収入を得ている人のことだ。
一般的なサラリーマンと同等か、それ以上の収入を得ながらも、日々働く必要がないのであれば、それはそれで確かにパラダイスとなりそうである。日々過酷な労働などを強いられることはない。それでいて、ほしいものを買ったり、行きたい場所へ行くことができる。しかも、それは思い立ったその時であって良い。つまり、いつでも自分の望む通りの生活をすることができるわけだ。その生活には、困窮という言葉は見あたらない。
「働かなければ収入を得られない。にもかかわらず豊かに生活することなど可能なのか?」と、そのように思われる方も多い。ところが、そんな生活を手にされている方は、少なからず存在するものである。
最近ではインターネットの存在があることから、情報の入手やコミュニケーションの維持に不自由することはない。このため、その気になれば、不労所得を作りやすい環境にあるといえる。
インターネットには、膨大な数のコンピュータが相互接続されている。コンピュータは、つまりは機械であるわけで、1日24時間働いてくれる。これを駆使すれば、自分の代わりに収益を生ませることができるからだ。指示をしておけば、その通りに処理を続けてくれるわけだから、それを収益化モデルと組み合わせて考えることで、不労所得を得ることもできる。
また、インターネットを用いれば、簡単に情報発信を行うことができるし、それをメディア化して、収益を得るという方法もある。先日も世界を旅しながら豊かに暮らすブロガーの記事を見た。サラリーマンの年収を超える収入を得ながらも、仕事をせずに世界を旅している。この彼は、日々ブログを書きながら旅をしているわけだが、これが彼にとっての仕事だ。しかしここに仕事にありがちな悲壮感は微塵もない。
また、ある程度の資金があり、金融に対する知識を持っている人間の中には、投資によって収入を得ることで「働いたら負け」と、胸を張る人間も少なくない。売買は1日24時間インターネットで可能であり、また、現在では世界のあらゆる市場での取引が可能となっているためである。
■勝ち負けの相違は収入の有無にある
「働いたら負け」という方の、実際の勝敗の分岐は、やはり収入があるかないかの相違であるといえる。生活費に困窮した者は、単なるプー太郎でありニートであり、SNEPであるわけだが、しっかりとした収入がある場合、それはプチリタイア生活といえるわけであり、明らかに勝ち組に組みする者といえるだろう。
よってもし「働いたら負け」と、胸を張って言い切り、しかも周囲から羨望の眼差しで見られるような立ち位置に身を起きたいと思われるのであれば、長期的な視点において、不労所得がどのようなものか、どうすればそれを実現できるかを、じっくりと検討されてみると良いかもしれない。
ただしここで一点忠告だが、見切り発車で会社を辞めてはならない。このミスによって、生活を破綻させた人間は、これまで数多く見てきたからだ。不労所得がしっかりとした状況となるまでは、会社を辞めてはならない。少なくとも、不労所得が本業の給与を越え始め、しかも長期にわたってその収入が継続する何らかの確証を、できれば得たい。
しかしもし、そんな確証を得られる状態にまでなれたなら、そのときのあなたは、「働いたら負け」と、胸を張って世間に公言することができるはずである。