55歳が思うセイフティネットの必要性とは
■風当たりが厳しい生活保護
生活保護に対する風当たりが厳しい。支給額が減らされるとともに、現物支給が望ましいという考え方もあるようだ。
生活保護は、日本においては生活保護法という法律で定められたシステムといえる。ちなみにこの第一条においては「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。」と定められている。また、日本国憲法第二十五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。
つまり国が定めたセイフティネットであるわけだが、これを好ましく思わない人がとても多いということだ。さて、ではなぜ、セイフティネットの存在を好ましく思わないのだろうか。理由はいくつも考えられるが、ようは「働くことができる人間が、働きもせずに税金を食いつぶすことは罷りならん」ということかと思う。
確かに、必死に働いて自力で生きている人がいる一方で、生活保護に頼ることで何も仕事をせずに生きている人がいるとするならば、そこには不公平性が浮き彫りになる。しかも、働く人よりもむしろ生活保護に頼る人間の方が、安定して生きていたりするならば、必死に働いている人間からすれば面白くないに違いないし、そもそも働く気さえ失せてしまうことだろう。
働けるのに働かず、税金に依存して生活するのは、働く人間からすれば納得いかないのは当然だし、生活保護費でギャンプルに興じるなんてのは問題外だ。もともと働けるのであれば働くべきだ。よって生活保護制度を好ましく思えないのは、ある意味で当然といえば当然のことだ。
■セイフティネットの質を下げることのリスク
しかしだからと、セイフティネットの質を下げたり、なくしてしまえば良いかというと、そんなに事は単純ではない。世の中には働こうとしていても働くことができない人間も少なくない。これは、俺のような不埒な中年男の域ではなく、真に働けなかったり、自力で生きることが難しい人々だ。
このような人々にとって、生活保護はどうしても必要なセイフティネットといえる。また、今後はさらなる高齢化社会へと向かうわけだから、しっかりとしたセイフティネットが用意されていなければ、餓死者さえも増えていく。これらの弱者も含めてひとくくりにして、「働けばいい」と切り捨ててしまっていては、そもそも国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を行使することができない。
世の中には、真の弱者が存在する。一方で、「弱者の立場にいるのは本人の責任なのだから、それを国がサポートする必要はない」という考えもあるだろう。ところが、現在は弱者ではない人々の中にも、今後、なんらかの要因において、弱者の立場に身をおかなければならなくなる可能性はある。しかもその原因が、外的な要因であることも少なくない。
それでも「必要ない」と言いきることができる人は、自分は弱者にはならないし、仮になったとしても、自力で這い上がるだろうから、セイフティネットなど不要だと考えているに違いない。確かにそのような人々には、セイフティネットは不要である。しかしセイフティネットとは、不要な人のためでなく必要な人のためにある。
また、「自分に関係ないなら、なくてよい。もともと自分が収めた税金なのだから、自分に返ることのみに使われるべきだ」と主張する方もいらっしゃるようだが、このような方々は、ひとたび弱者に回れば、その瞬間から、セイフティネットの必要性を訴えることだろう。
一方で、不正受給などを許さないシステムの導入はとても重要である。ただしこれは受給資格を厳しくしたり金額を下げたりするのでは解決しない。真実をあぶりだすチェックシステムが必要なのだ。それが難しいからとセイフティネットのクオリティを下げていては、セイフティネットに引っかからない弱者の数が増えるだけだ。
最近では国が個人の銀行口座の収支を管理しようとする動きも見られるようになった。これ、かなりきわどい動きにも見えるが、正しい収支の把握をを行うために、こんな措置も必要だと考えたのかもしれない。
いずれにしても真の弱者には、もっと優しい国民であり、国であっていただきたいと思う。それは巡り巡って、結局自分に返るものだからだ。
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